小倉城(北九州市小倉北区)
先日の石田一龍さんの濃厚らーめんからの続き。。
石田一龍さんから歩いて10分弱で小倉城に訪問ができます。

周辺は小倉市役所や松本清張記念館などランドマークで囲まれてしまっています🏃

<公式HPより>

関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として古くから砦や城が築かれ、多くの豪族が争いを繰り広げた歴史が残っています。小倉城の歴史は戦国時代の末期、1569年に中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種(たかはし あきたね)や毛利勝信(もうり かつのぶ)が居城し、関ヶ原の戦いで功績を挙げた細川忠興(ほそかわ ただおき)が1602年に本格的な築城を開始。完成までに約7年を要しました。
小倉城の都市計画と城下町の発展
細川忠興が築いた小倉城は、城下町全体を城郭とする壮大な都市計画のもとで建設されました。全国で五番目の規模を誇り、西日本では姫路城に匹敵する巨大な城郭でした。特に九州では群を抜く大きさで、熊本城の約2倍の規模を誇りました。
小倉の町は本州と九州を結ぶ玄関口であり、中津街道や長崎街道の起点でもありました。そのため「九州のすべての道は小倉に通じる」とも言われ、活気にあふれていました。城下町では、城の周囲に家臣の武士が住み、その外側には町人が暮らしていました。忠興は城下町の発展を目指し、各地から商人や職人を招き、商工業を保護。さらに外国貿易を奨励し、同時に祇園祭りも誕生させました。
小倉城の変遷と小笠原氏の時代
細川氏が熊本へ転封された後、1632年には細川家と姻戚関係にある播磨国明石の小笠原忠真(おがさわら ただざね)が入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名の監視という特命を受けていました。この時期、小倉は九州各地へ通じる街道の起点として重要な地位を確立し、小倉城もさらに充実。城下町も発展を続けました。小笠原忠苗(おがさわら ただみつ)の時代には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園も造られました。しかし1837年、城内で発生した火災により全焼。その2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。
小倉城の近代史
幕末になると、小倉は長州藩を攻める拠点となりました。小倉藩と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、小倉城に自ら火を放ち撤退を余儀なくされました。明治10年の西南戦争では、小倉城に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木希典将軍に率いられて出征。その後、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。太平洋戦争後は米軍に接収されましたが、1957年に解除。1959年、市民の熱い要望により天守閣が再建されました。
再建された天守閣の特徴
再建された天守閣は「唐造り(からづくり)の天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根の庇(ひさし)がなく、五階が四階よりも大きくなっているのが特徴です。創建当時は日本最大の床面積を誇りました。その後、徳川家の建てた天守閣に抜かれましたが、それでも規模は非常に大きなものでした。
また、城の石垣は切り石を使わない「野面積み(のづらづみ)」の技法で築かれ、素朴ながらも力強い風格を備えています。
小倉城イベント情報
・小倉城入城者一千万人達成記念:名前に「千」がつく方対象:小倉城・小倉城庭園 入場無料
・令和7年度ご卒業者対象:小倉城・小倉城庭園 入場無料
・小倉城桜まつり:2026/3/20~2026/4/12

君は。。。ゆるきゃらかい?🤔
『愛称:とらっちゃ』
2009年、小倉城再建50周年を記念して誕生。
名前は全国から応募総数3,111通(公式HP、応募用紙 、FAX)の中から、選ばれました。
「とらっちゃ」は、小倉城天守閣1階・2階に展示している「迎え虎(オス)」「送り虎(メス)」の絵が元になったキャラクター。
その絵は日本最大級の高さ(4.75m×2.5m)。
小倉城に来城されたお客様をお迎えし、全国に小倉城をアピールすることを使命としている。
カブトがはみ出すほどの大きな頭が、チャーミングポイント。額の模様は、小笠原家の家紋である三階菱になっている。
しろテラスの前で撮影しました。とらっちゃとの撮影スポットになっているようです📸



残念ながら焼失してコンクリート製のお城ですが、立派な石垣に建物ですね。
今回は時間がなくお城の周りを散策だけしました。
今度は中に入って見学したいです😆
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